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藤田 学(ふじた まなぶ、1955年5月9日 - )は愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 南宇和高校では1973年、エースとして夏の甲子園県予選準々決勝に進出し、松山商の西本聖投手と投げ合い完封勝利。しかし、準決勝では今治西の矢野隆司投手(亜大-熊谷組)に完封を喫し、甲子園出場を逸する。同年のドラフト1位で南海に入団。 野村克也監督の方針でファームでじっくり鍛えられ、2年間は一軍に昇格されなかった。入団2年目にはウエスタンリーグで16勝3敗、防御率1.68という成績を残す。16勝は現在でも二軍のシーズン最多勝記録である。同僚だった江本孟紀は「(藤田は)サインが複雑で覚えられず、クイックができないからずっと二軍に置いといたら16勝して新記録、ノムさんはそれぐらい徹底していた。」と語っている〔南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988、ベースボール・マガジン社、2012年、P36〕。 入団3年目の1976年には先発ローテーション入りし、11勝3敗、防御率1.98(2位)の好成績で新人王に選出された。その後2シーズン連続でチーム1位の16勝を記録、オールスターゲームにも3度出場している。馬力のあるストレート〔南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988、ベースボール・マガジン社、2012年、P74〕、ブレーキの鋭い大小のカーブが持ち味だった〔。しかし内転筋を痛めて2年間低迷。1981年には先発に復帰して13勝をあげるが、その後は肥満体型化の影響などもあって球威が衰え、登板機会が徐々に減少し、1986年に31歳の若さで引退した。 1987年から1989年まで南海・ダイエーの二軍投手コーチを務めた。1990年からは一軍ブルペンコーチを務めていたが、中西勝己が投手陣低迷の責任を取らされる形で休養し、一軍投手コーチに昇格。しかし、投手陣を立て直せずチーム防御率は当時ワーストだった5.56と低迷した。1991年は再びプルペンコーチ、1992年は二軍投手コーチを務め、同年退団。退団後は1993年から1995年までサンテレビの野球解説者を務め、1996年から再びホークスのコーチに就任し、1999年のリーグ優勝・日本一に貢献。2001年6月に解任。翌2002年から石毛宏典(2003年途中からはレオン・リー)監督率いるオリックスの一軍投手コーチを2年間務めたが、2003年は投手陣の成績不振と故障者の続出によってチーム防御率5.95(1990年のダイエー以来13年ぶりのチーム防御率5点台)、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819など次々とプロ野球ワースト新記録を記録、この責任を取らされる形で同年限りで退団。 その後は社会人チームの沖データコンピュータ教育学院硬式野球部総監督を経て、2007年から2008年まで三度目となる福岡ソフトバンクホークス二軍の投手コーチを務め、一軍で低迷していた新垣渚のフォームを矯正させ終盤に復調させた。2009年からはスカウトを務め、現在は編成育成部国内担当を務めている。 息子の藤田卓史は沖学園高校から九州共立大学を経て東芝に入社、2010年の第81回都市対抗野球で優勝に貢献、最優秀選手賞に当たる橋戸賞を受賞している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田学 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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